慈聖宮は二つの殿堂(前殿と正殿)、二つの廊下(両殿を連結し)、
二つの護室(西廂と東廂)からなり、台湾でよくある中型の廟建築である。
   
 

[慈聖宮媽祖廟]
(台北市保安街49巷17号) 延平北路で、東呉ホテルの向こう

大稲程で最も大きい廟である。媽祖は俗に天上聖母といい、または天后と
いう航海の神様であり。

こちらの媽祖は清王朝の嘉慶年間に泉州同安人によって奉られ、始めは
萬華にあった。その後、泉州人と樟州人の争いの後、泉州人が大稲程に
移り、同治5年(西暦1866年)今の西寧北路と民生西路の交差点に新たに
廟を建て、廟前は大稲程貿易港があった。

西暦1910年、日本統治時代の台北市区改正によって廟が取り壊されたが、
すぐ現在の場所である延平北路に再建し、もともと使っていた柱や石材を
材料として、あちこちより寄付をたくさんの集め呼びかけをして1914年に
完成した。いつも線香が焚かれ、台北の名所となっている。廟内には同治
年間の木製の額などが見ることができる。

媽祖事跡

宋王朝の建隆元年(西暦960年)旧暦3月23日、媽祖は福建の浦田県眉州島の
林家に生まれた。始めは林家の母親は観音菩薩の夢を見て『将来なんじの
家に聖女が来るだろう』というお告げを聞いた。間も無く身ごもり女の子を
授かった。その子はとても美しくて泣くことがなく、直ぐにお告げの聖女で
あると思い、『黙娘』と名付けた。

黙娘幼い頃から非常に賢く礼儀も正しく、まるで仏のようであった。大きく
なると特殊な力を使い各地を周り禍を治めた。特に沿海各省の人々は恩恵に
与かり通賢霊女と呼ばれ慕われた。

宋王朝の雍熈5年(西暦988年)旧暦9月9日、黙娘は29歳の時、事をやり終え、
家族や人々に別れを告げ、眉州高峰に上り、仙楽と共に雲を操り天に昇った。
その後、災難が起こる度に現れ人々を守り、沿海の人々だけでなく内陸の
人々にも敬愛され、媽祖と呼ばれた。媽祖とは自分の家の祖母を親しみを
込めて呼ぶ名称である。

歴代の朝廷も聖母媽祖を厚く信仰し、多くの寄付をした。元王朝の護国明著
天妃と崇め、明王朝の弘仁普済天妃と崇め、清王朝の昭応仁慈天后と崇めた。
更に清王朝の雍正皇帝は天上聖母を崇めた。これ以前に37もの名が付けられ
崇められた。

明王朝の永歴15年(西暦1661年)将軍鄭成功が台湾を占領していたオランダを
追い出し、順調で台湾を取り戻した。そして媽祖に深く感謝し、いたる所に
廟を建てた。現在台湾では2400余りの廟があり、その内1400余りが媽祖を
奉っている。海外では南アジアの各国や、日本、韓国などの国にも信仰して
いるひとが多い。媽祖の恩は無限である。